岡沢 秋
初めて開いた本のタイトルと匂いを覚えている。
それは「エッダとサガ ―古典北欧への案内」(新潮選書、谷口幸男)で、古本屋においてあったのを適当にタイトルだけで選んで買ったものだ。長年古本屋に積み上げられていたと思しきほこりっぽさと、茶色く日焼けしたビニールシートが、それ自体を古書に思わせた。
北欧神話と言うとゲームやマンガにもよく使われ、出てくる名称は広く知られているものの、その名称の元になっている道具がいかなる場面で登場するのか、神々はどのようなことをしてきたのか、実際に読んで確かめてみた人は多くは無いと思う。はっきり言えば原典は短く、そして難解だ。それらは主に口伝として、言葉にしたときに耳に快いように、端的であり繰り返しもあり、極限まで説明を省き、説明を一切つけずに、当時の聞き手が知っているとされた古事や固有名詞を次々と並べ立てていく。日本の初心者には、意味はわかりづらいかもしれない。
でも、細かいことは気にする必要が無い。とりあえず読んでみればいい。分からないなりに、不思議に力強いリズムが伝わってくるはずだ。
たとえば、こんなふうに。
巫女の予言より抜粋
私は覚えている、はるかなる時の
はじめに生まれし巨人たちを、
そのむかし私を
はぐくみ育てし者たちを。
私は覚えている、九つの世界を
九つの根の枝を、
土の中にありし
名高き測り樹を。(第二節)
月のみちづれ
太陽が南から
天のへりの上に
右の手を投げ置いた。
太陽は知らなかった
おのれがいずこに館をもつのか、
月は知らなかった、
おのれがいかなる力を持つものか。(第五節)
彼女はただひとり外に座していた。
老人、アースらのなかで不安を覚えつつ
思慮する者がやって来て
目を覗き込みにとき。
そなたらは私になにを問うのか?
そなたらは私をなにゆえ試みるのか?
私は、オージンよ、すべてを知っている、
そなたがどこに目を隠したかを、
かの名だかき
ミーミルの泉に。
ミーミルは朝ごとに
ヴァルフォズルの担保から
蜂蜜酒を飲む。
そなたらはご存知か―― それともいかに?(第二十節)
出典「巫女の予言 エッダ詩校訂本」
シーグルズル・ノルダル(東海大学出版会)
これは、北欧神話の最も重要な原典「エッダ」の中に出てくる、「巫女の予言」という詩の一部分である。
詩のセリフを語る巫女が誰なのか、詩の中に投じようする用語が何を指すのかは、興味を持ったなら調べてみればいい。ただ今は、その言葉の響きと独特の余韻を楽しめばいい。
巫女は神々と人に語る。「そなたらは知っているか、覚えているか。」だが覚えている者はそうはいない。彼女が語るのは、遠い遠い時代、世界が始まった頃から今に至る物語、そして― 神々が滅び去り、世界が消え去り、再再生するだろうという、未来にして過去の物語なのである
。